長沼の子安講

長沼には平成28年(2016)まで子安講があった。3つ講があったが核家族化や高齢化でついに最後の講が解散し、江戸時代から続いた子安信仰が途切れることになった。子授かり、安産、子育てを如意輪観音や地蔵尊に願うのが子安信仰で、女たちが講を組み、当番宿で観音様や地蔵菩薩が描かれた「掛け軸」を前に和讃を唱和するところが多い。長沼の子安講は月一回、当番宿に女たちが集まり、世間話のあと、市川市の根本寺(真言宗豊山派)の「地蔵菩薩の掛け軸」を前に和讃を唱和し、終えていた。

 長沼では、栃木県芳賀町の城興寺(天台宗)の「延生子安地蔵和讃」が唱われてきた。どうして、下野の和讃が長沼に伝わってきたのか、はっきり分かっていない。だが、産土様である三社大神の境内に「明治35年 長沼講中」の刻字がある古峯神社(栃木県鹿沼市)の石がひっそり置かれている。この地に火伏せの古峯信仰があったのは確か。古峯神社への代参などで、長沼の人たちが栃木へ行き来し、「延生地蔵和讃」を持ち帰った可能性は否定できない。

 観音堂の子安堂には、如意輪観音座像(写真)が20基近くあり、埋め墓にも如意輪観音と確定できる塔が10基建っている。大半が江戸時代に造立されたものだ。

 長沼の子安信仰は、江戸時代に観音信仰、明治期に地蔵信仰へ移行している。長沼の和讃は城興寺のものだが、違いがある。城興寺の和讃は「南無阿弥陀仏」で終わる。長沼の和讃は如意輪観音の真言「はらだはんぞめ うん そわか」で結ばれ、ここに江戸期の影をみることができる。この点からも、如意輪観音信仰のあとに地蔵尊信仰が入り、習合することで地域に根づいてきたことがうかがえる。