長沼の筆子塚と教育

長沼の駒形観音堂に筆子塚がある。江戸時代の後期に長沼新田、犢橋村、花島村などの子どもたちに手習いを教えていた寺子屋の亡き師匠の遺徳を偲び、生徒である筆子が建てたもので、そこには長文の追悼の辞が刻まれている。筆子塚といえば、墓石や供養塔が多いが、長沼のそれは立派な板碑であり、ここからも師匠を慕う筆子の思いが伝わってくる。

師匠の名は藤沼郡次、明治9年2月2日に死去した。碑は、渡邉伊左ヱ門ら三人が発起人となって、明治25年9月に建てられた。追悼の文を書いたのが筆子の町野求平。台座には、寄進者の筆子とみられる80名を超える名前が並んでいる。


 要約

師は通称、郡次と言い、可実という俳号を持つ。長沼新田 藤沼長五郎の二男で、12歳で武田精庵から句読書法を教授され、真面目に勉強したことから、先生に可愛がられた。18歳になると栗生泰良のもとで医術を学ぶ。さらに、青年となっては、犢橋に学び舎(寺子屋)をつくり、少年や若人の教育に力を注いだ。一方で医者として生計を立てていた。

しかしながら、自身が未熟であると自覚し、高木箕山という遊士を招き入れ、師事した。

その後、自らの学びが進んだことから、様々な人たちの教育に取り組み、それは30年にも及んだ。ちょうど明治の学制施行(明治5年=1872年)にあたり、学校教育が始まったため、学び舎を終えることにした。

そののちは、悠々自適の生活に入り、俳句作りを老後の楽しみとして、ついに明治9年2月2日享年59歳で永眠する。

師は優しく情に厚く、誠実で寡黙ながらいつも穏やかな顔をされ、生徒たちには率先して学ぶ姿勢を示していた。また、虚飾を嫌い、実を好んだ。それ故、人びとは師について、こう言っていた。先生の学は、直接お金を稼ぐことにつながらないが、「柳下恵」(注)そのものであると。このため、近くはもちろん遠くからも多くの学生が門を叩き、学んだ人の数は400人余りに達し、この地の多くの知名の士がこの門から巣立っていった。

師とはこのような人をいうのである。

亡くなられても弔わない者、その恩に報いようとしない人に天道はない。このことは邪なこと、そうではないのか。

我々のこうした篤い思いをどうしてとどめることができようか。ここに一片の碑を建てることによって、墓に眠る師の霊を慰めることにしたのである。

 

注:魯の大夫(長官)「柳下恵」は立派な地位を誘われても自分の節操を変えることがなかったとの論語からの引用。


□長沼の教育は神照寺の寺子屋が始まり

 

藤沼郡次が手習い所の寺子屋を始めたのは、江戸時代 天保13年あたり。犢橋村の神照寺(現在は廃寺=千葉市花見川区犢橋町262付近 写真は跡地)で天保期の末から幕末にかけて、地域の子どもたちに文字とともに、道徳を教えた。碑文のような筆子の師への篤い思いもこうした道徳教育によって培われたといえる。


□寺子屋が犢橋小学校へ

長沼周辺では、天保年間に犢橋村の神照寺、宇那谷村の大聖寺、安政年間に長沼新田の観音堂など数カ所に寺子屋が誕生した。その後、神照寺が廃寺となり、寺子屋は犢橋村(現・千葉市花見川区犢橋町)の長福寺(写真)に間借り。また、明治5年(1872年)の「学制」発布により、明治6年に寺子屋を継承する形で長福寺に「犢橋学校」が創設された。教員は佐倉藩士の仁辺道、園生の鏑木憲三郎(学科、読書、習字)との記録が残っている。明治16年に「犢橋小学校」となった。


□昭和2年 長福寺から現在地に移転

明治16年12月には、宇那谷村の大聖寺に「宇那谷小学校」が開校。明治18年教育令改正、同19年小学校令公布で「犢橋小学校」は「犢橋尋常小学校」に、同23年の教育勅語発布、小学校改正、同24年の小学校教則大綱制定などを受け、同26年に高等科が併設され、「犢橋尋常高等小学校」に改称された。明治31年に柏井分教場(現・花見川小)、同39年に小深分教場(現・山王小)も設置された。昭和2年には、56年間にわたって長福寺にあった校舎が千葉市花見川区犢橋町774の現在地に移転した。

 参考文献 平成4年1月18日千葉市立犢橋小学校創立120周年記念誌